Kazuo Shibagaki


武蔵大学最終講義

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2004年3月27日・武蔵大学最終講義

_ 大学生活の半世紀---研究・教育・国際交流---

柴垣 和夫

_ 0. はじめに

よく「日本人のスピーチは弁解から始まる」と言われますが,私の最終講義も例に漏れず,弁解から始めますことをお許しいただきたいと思います。といいますのは,本来ですと,私が武蔵大学に在職いたしました10年間の研究成果に絞って,何か特定のテーマでお話しすべきなのでしょうが,残念ながらそれができません。それだけの内容を伴った研究を,実はこの十年間ほとんどしてこなかったからであります。著書,論文のいくつかを発表して参りましたが,その内容の多くは本学に参ります前から暖めていたものであります。どうして十分な研究ができなかったのか。それはもちろん武蔵大学のせいではありません。私が急に怠惰になったからでもありません。端的に言いますと,本学に参りましたころから両親の認知症が次第に進行し,在京の妹二人や妻とともにその介護に多くの時間をとらなければならなかったからです。まことにこの十年間は,日本で高齢者の介護問題が大きな社会問題として取り上げられた時代でしたが,私たちはまさにその渦中を生きてまいりました。

そういう次第で,これからのお話しは,私が研究生活に入って以来のいくつかのトピックスを懐古的にお話しすることで,お許しいただきたいと存じます。また,今日お集まりの皆様は必ずしも研究者の方々とは限りませんので,できるだけわかりやすくお話ししたいと考えております。まずは研究者になる前の,学生時代の環境から話しを始めさせていただきます。

_ 1. 学生時代---マルクス経済学の発見と「講座派」理論への傾倒

私が福岡の修猷館高校を卒業し,東京大学教養学部に入学すべく上京して参りましたのは,今から52年前,1952年4月のことでした。4人がけの3等客車で24時間かけての長旅でした。1952年といえば,第2次大戦後の東西の冷戦が熱戦に転化した朝鮮戦争が始まって2年目,4月に米国陣営との片面講和が発効して,戦後民主主義からのいわゆる逆コースが進んでおりました。駒場では4月早々,破壊活動防止法や東大の火山観測所がある浅間山の軍事基地化に対する反対闘争が燃え上がり,5月1日のメーデー事件もあってキャンパスは騒然としておりました。

私は高校時代までは,ロマン・ロランの『魅せられたる魂』やロジュ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』の影響を受けたイデオロギー的には絶対平和主義者をもって任じており,将来は法学部の政治学科に進学して政治家かジャーナリストになることを夢見ていたのですが,寮生となり,サークルは歴史研究会の「天皇制」「女性史」グループに属して先輩や同級生にもまれる中で次第にマルクス主義に傾斜していったのでした。そして私自身がマルクス主義者に仲間入りする契機となったのは,歴研の中に『資本論』を読むグループを作り,経済学の講義を受けていた相原茂先生に来ていただいて,約一年かかって読み上げたことでした。先生の「一言一句にこだわらすに,ともかく先に進んで全部読み通しなさい」というアドバイスに従って,しゃにむに読み通したのでした。もちろん今から振り返ってみれば,内容が理解できたとはとうていいえませんが,あの大著を読み上げたということが,ある種の自信を与えてくれたのだと思います。

もう一つ,駒場時代に洗礼を受けたのが「日本資本主義論争」でした。ある日このタイトルで歴研と社研共催の講演会があり,法政の山本弘文さんと犬丸義一さんが講師でした。そこで私は,戦前の日本資本主義をめぐって,明治維新はブルジョア革命だったのか否か,天皇制は絶対王制かブルジョア権力か,農村の地主=小作関係は封建的か近代的か,などについて,「講座派」と「労農派」という二つの異なった理解があり,それが革命政党の戦略にとって死活の重要性を持つと考えられていることを知りました。講師のお二人ともが「講座派」の論客で,当時学生運動に強い影響力を持っていた日本共産党の理論的支柱が「講座派」理論だったということもあって,私も一途に「講座派」的理解に傾斜していきました。

こうした駒場での2年間の生活を経て,私は法学部から経済学部に進路を変え,1954年4月に本郷に進学して大内力先生の演習に参加しました。大内ゼミを選んだのは,演習生から大学院への進学者が多く,学究的雰囲気にあふれていたからでもありましたが,当時「講座派」理論に傾倒していた者として,理論的に「労農派」の俊英と目されていた大内先生の理論を打倒するためといった,まったく不遜な「使命感」に駆り立てられてのことでもありました。しかし,この不遜な思い上がりは,実際の演習の場で木っ端みじんにうち砕かれました。大内演習では,夏学期にはカウツキーの『農業問題』やレーニンの『ロシアにおける資本主義の発達』などを用いての輪読,冬学期には各自の研究報告がおこなわれ,討論と先生の総括を含めて午後の3時に始まる演習は夜の8時頃までかかるのが常でした。私は,のちの法政の教授になった川上忠雄君などとともに,毎回大内理論批判の準備をして演習にでるのですが,そのたびに理路整然とした先生の反論に会い,憔悴して蕎麦屋に向かうのが常でした。そして,そのうちに大内先生が立脚しているのが単純な「労農派」の理論ではなく,「講座派」「労農派」双方の欠陥を批判して登場した宇野弘蔵先生の理論,いわゆる宇野理論であることを知るようになりました。のちに大学院に進学してから2年間,宇野先生のゼミにも出席してその謦咳に接する機会がありましたが,私の「宇野理論」との出会いは,大内先生を介してのことでした。

しかし,私は学部の卒業まで,基本的に「講座派」のシッポを残しておりました。大学院入学の学内選考のために書いた論文は,天皇制論の延長線上で設定した「絶対王制論」であり,その内容は「講座派」と「労農派」の理解の折衷的なものでした。私が本格的に宇野理論に立脚するようになったのは,大学院の2年目に大内先生の演習で,宇野先生の青林書院版『経済原論』をテキストとして,体系的に原論を学んで後のことでした。

_ 2. 宇野理論への転向と日本金融資本研究---大学院・助手時代

1956年4月,私は東大大学院社会科学研究科の応用経済学専門課程に進学しました。経営・会計コースを別にすれば,理論経済学・経済史学専門課程を選択するも道もありましたが,経済学の目標は現状分析にあるという思いと,それ以上に理論コースには山田盛太郎,宇野弘蔵の両先生,経済史コースには大塚久雄,土屋喬雄の両先生といった長老教授が君臨していたのに対して,応用コースには大内先生のほか,武田隆夫,隅谷三喜男,加藤俊彦,遠藤湘吉,氏原正治郎といった40代前半の少壮教授陣が厚い層をなして活躍しておられたからです。私は,先程述べましたように,一方で理論コースの宇野ゼミに参加して原論の耳学問をしつつ,応用コースの各先生のゼミを渡り歩きました。この,複数の,しかも学派を異にする先生方と接することができるという研究者養成システムは,それを通じて専攻や学派を異にする院生相互の間でも切磋琢磨できるという点とともに,旧制大学の講座制による教授−助教授−助手といった縦割りのそれと比べて,新制大学院の優れた特徴だと思っていますが,私たちはこのアドバンテッジを最大限に享受できたのでした。

ところで,新制大学院では2年間で修士論文を書かなければなりません。そのテーマを選ぶに当たって,ほとんど「講座派」から脱却しかけていた私にとって,天皇制や絶対王制論はもはや魅力に乏しいものでした。実際,1956年の『経済白書』が「もはや戦後ではない」と書いたその頃には,技術革新による重化学工業の企業を主体とした経済の高度成長がスタートしており,また新憲法下の天皇制にそれほど力があるとは思えない現実が生まれていました。私は,農地改革による地主制の解体後,単一の支配階級として再建・再編成されつつある独占資本----マルクス経済学の学術用語では金融資本---に研究の焦点を定め,さしあたりその戦前の前身である財閥を研究対象に設定いたしました。これが,以後10年近くにわたる私のドクターアルバイトの主題となったのであります。幸いなことに,当時日本のマルクス経済学の世界では,金融資本研究が一つのブームとなっておりました。大野英治氏の『ドイツ金融資本成立史論』,生川栄治氏の『イギリス金融資本の成立』,古賀英正氏の米国を対象とした『支配集中論』などが出版され,身近なところでは宇野理論に立脚して戸原四郎氏がドイツ,石崎昭彦氏がアメリカを対象に研究を進めていました。

ご承知の方も多いと思いますが,金融資本というと通俗的には金融機関のことを指しますが,R・ヒルファディングが1910年に『金融資本論』を著して以来,マルクス経済学では資本主義の帝国主義段階における支配的資本を指す用語として用いられるようになりました。それを簡潔に定義化したのがレーニンの『帝国主義論』で,「生産の集積,そこから発生する独占,銀行と産業との融合癒着」というのがそれであります。ところが,このレーニンの定義に当てはまるのはドイツだけで,イギリスにはそもそも独占といえるような産業の集積は第一次大戦前には見られませんでしたし,米国では銀行の性格が違っていて,最近亡くなった米国のマルクス経済学者P・M・スイージーは「金融資本と言う用語をやめて,独占資本に置き換えるべきだ」といった提言をするような状態が生まれていました。その点を方法的に解決したのが実は宇野先生で,先生は1954年に著された『経済政策論』で,帝国主義段階のような資本主義の特定の発展段階のレベルでは,各国の資本主義(帝国主義)はそれぞれの歴史的事情によって異なった形態をとり,その背後には支配的資本である金融資本の異なった形態があるのだ,と主張されたのです。私は独・米を対象とした戸原さんや石崎さんとともに,この宇野先生の考えを指針として,日本について実証しようと決意したのでした。従って修士の学位論文では,レーニンの「銀行と産業の融合癒着」という定義にこだわらず,先行研究が無意識のうちにそうしていた昭和初年の三井・三菱などの財閥資本を日本型金融資本の存在形態として取り上げ,その日本的形態の特質として第一に,製造業特に重工業の産業基盤が弱く,鉱山・流通・金融を中心にほとんどあらゆる産業部門に傘下企業を擁する総合コンツェルン形態をとっていること,第二に頂点にたつ持株会社資本の家産的性格にもとづく封鎖性と傘下事業の高収益を基礎として,コンツェルン全体として高度の自己金融を実現していたこと,の2点を検出したのであります。この後者の点は,従来財閥銀行を中心とした傘下の金融機関は財閥外部からの資金調達期間だと考えられてきたのですが,実際には逆に,財閥傘下企業が蓄積した資金を預金として吸収し,それを財閥外部に供給することによって財閥の支配の外苑的拡大を担うという,通説への根本的批判を含んでおりました。

しかし,以上の作業はほんの出発点に過ぎません。このような金融資本の日本的特質をつくりだした歴史的背景ないし根拠の解明が次の課題でした。ある時点における現実は過去の歴史の所産でありますから,歴史分析を欠いて現状分析は不可能です。この,社会を歴史的に科学する点にマルクス経済学の強みがあると私は思っておりますが,この作業は大学院の博士課程とその後の東大社会科学研究所の助手時代に行うことができました。ここでも私は二つの幸運に恵まれました。

一つは史料面での幸運で,当時東京教育大におられた楫西光速先生のご厚意で,三井文庫に眠っていた『三井本社史』の草稿のマイクロフィルムを利用できたこと,またこれも三菱経済研究所に眠っていた『三菱(本社)社誌』を同研究所の津谷彰一さんのご厚意で利用できたことです。今は三井文庫の史料は全面的に公開・刊行され,『三菱社史』も東大出版会から復刻されていますが,当時はその存在がほとんど知られておりませんでした。しかも全数十冊ある『三菱社誌』は研究所からの借り出しは許されず,私はまる一年ぐらい,今はもうありませんが,丸の内にあった赤煉瓦の通称三菱村,そこの中八号館に通って,大学ノート十冊あまりに要点を筆写しなければなりませんでした。しかし,この筆写作業は,今から振り返ってみますと大変有益だったと思っております。最近のように複写機が普及しますと簡単にコピーがとれて,それで頭に入れた気になってしまうのですが,実際にはそうではないのですね。時間はかかりましたが,この筆写作業を進める中でいろんな発想が浮かんできて,史料をこなしながら論文の構想が熟成していったような気がするのです。この点が一つ。

もう一つの幸運は,幸運というより自助努力に近いかもしれませんが,博士課程に進学してから同期の川上忠雄,志村嘉一の両君と一年上の一寸木俊昭さんの四人で明治以降の産業発達史の研究会を組織し,私は主として綿工業の発達史を調べたことです。綿工業に関しては戦前以来の沢山の先行研究がありましたから,それらの文献研究を進める一方,当時上野にあった国会図書館の分館に通って大日本紡績連合会の『月報』や当時の経済雑誌を渉猟し,日本における近代産業とそれを担った資本について追跡したのであります。そして,財閥史の研究と産業発達史の研究を並行して進めた中で,先行研究において日本資本主義についての二つの異なったイメージが存在することに気がついたのです。

一つは戦前の日本資本主義は一貫して財閥の支配下にあったというイメージで,それは明治維新期には特権政商として明治政府とともに資本の原始的蓄積を促進し,官業払い下げを通じて産業資本に転化した後,経営の多角化とコンツェルン形態の採用によって金融資本に成長した,というものでした。対するもう一方のイメージは,戦前に日本は繊維王国であり,綿業と絹業(生糸)に支えられた経済であった,というものです。そして前者の理解に立つ論者においては,綿業や絹業も財閥の支配下に包摂されていたとされるのに対して,後者の理解に立つ論者の場合は財閥に対する言及がほとんど無い,という特徴がありました。よく調べてみますと,日本の帝国主義が本格的に動き出した1930年代初頭を見ましても,産業構造の中核は繊維で,それは製造業を代表する大企業によって編成された紡織兼営の綿工業と中小・零細企業によって構成された製糸業並びに絹綿の織布業で,しかもそれらへの財閥の支配力は弱く,あっても商社などを通じた間接的なものでした。そして,驚くべきことには,綿糸紡績業では大日本紡績連合会という日本を代表するカルテルが組織され,在華紡といわれた対中国直接投資さえ見られたのでした。他方先ほど触れましたように,財閥傘下の事業は銀行と商社,生産部門では鉱山を中核としていたのです。私の日本金融資本の2類型説,すなわち財閥と綿工業独占体を相対的に独立した日本金融資本の2類型と捉える理解は,こうして誕生したのでした。

それだけではありません。このような把握は三つの副産物を生み出しました。一つは幕末維新期から1930年前後の金融資本確立期までの日本経済の段階区分とそこにおける支配的資本の変遷に関する理解です。具体的には幕末維新の原始的蓄積期には後に財閥になる特権政商が支配的資本として君臨したのですが,1880年代末から世紀の変わり目までの時期は,産業資本として勃興し発展した機械制綿工業が新しい支配的資本となり,旧特権政商は主役の座を降り,鉱山・金融・流通を支配する総合事業体として産業資本を補完する役割に後退する。ところが20世紀に入って,特に日露戦後の慢性不況を通して資本の集中運動が始まり,一方では旧政商の総合事業体がファミリー・コンツェルンを形成して財閥金融資本となり,他方では綿工業で産業独占が形成され,これが金融資本の他方の極を形成する,というものです。

副産物のその2は,戦前期日本資本主義(帝国主義)の構成要素を立体的に把握する試みです。その基軸をなすものは言うまでもなく財閥と綿工業独占体の二つですが,その裏をなすものとして,労働力供給源としての家族経営による農業と,その農家の副業である養蚕と結びついた輸出産業=外貨獲得産業としての製糸業があげられます。第5が日本帝国主義の最大の弱点であった脆弱な重化学工業を民間資本に代わって担った国家資本,最後が主として地方財閥によって担われた電力・電鉄などの公益事業資本です。これらの六つの産業ないし資本をきちんと分析して相互に位置付ければ,戦前期日本資本主義の総体的把握ができるのではないか,というのが私の仮説的展望であります。なお,以上の理解は,それまでの先行研究に支配的で,今日なお払拭されていない綿工業と製糸業を等並みに日本の産業資本として把握する理解への,根本的批判を含むものであったことも指摘しておく必要がありましょう。前者が自律的な再生産構造を主体的に形成したのに対しまして,後者は生糸の輸出先である米国の景気変動に従属するいわば植民地産業の性格を帯びたものでした。

副産物のその3は,財閥と綿工業独占体を金融資本の2類型とすることによって,1930年代以降の日本帝国主義のアジア・太平洋戦争に至る経済的必然性のロジックを説明することが可能になるのではないか,とうい仮説的展望です。世界恐慌後の1930年代に日本が経験した国際摩擦は,満州国問題を別とすれば経済面ではほとんど綿工業のビヘイビアが引き起こしたものでした。中国の抗日運動と正面からぶつかった綿製品輸出と直接投資, 綿製品のアジア市場をめぐる米国,イギリス,オランダ等との葛藤は,大恐慌下の世界貿易の収縮のなかで,輸出が激減した生糸に代わって綿工業が外貨獲得を担わなければならなかったが故の国際対立でしたが,金輸出再禁止後の管理通貨体制の下で,財閥が本格的に近代的兵器の国産化を可能にする重化学工業に進出したことによって、それを軍事的に打開する道が開けたのでした。この綿工業を対外進出の起動力とした理解は,1964年に楫西先生の編で交詢社出版局から刊行されました『現代日本産業発達史・繊維(上)』に発表しましたが,そしてそれは後に北大の西川博史さんによる「綿工業帝国主義論」の主張を導いたのですが,私の場合はあくまで綿工業独占体と財閥を車の両輪とした理解で,この骨子は1967年の社会経済史学会で発表いたしました。そして,以上の理解を集大成して論じたのが, 1965年に東大出版会から上梓しました『日本金融資本分析』で,これは同時に私の博士学位の請求論文にもなりました。

_ 3.戦後日本資本主義論と現代資本主義論

東大社研の助手を3年務めたあと一年浪人して1966年4月に同研究所の助教授に採用されました。研究所のスタッフというのは大学院の講義と演習は担当しますが,学部の講義負担はなく,研究条件としては大変恵まれた環境でした。最初の一,二年は日本の金融資本の1930年代から戦後にかけての変容を追求して,『日本金融資本分析』の続編を書くつもりだったのですが,そしてそのための習作をいくつか書き,これは啓蒙書の形をとったのですが,中公新書で『三井・三菱の百年』という戦後の高度成長期まで引き延ばした著作を書いたりもしたのですが,1968年に医学部の研修医問題から発した東大紛争が勃発し,研究は一時中断を余儀なくされてしまいました。私も大学人の一員としてこの紛争を主体的に受け止め,大河内体制には批判的な立場で臨み,加藤体制には是々非々で対処し,ときには赤門前で教員有志のビラをまいたりもしたのですが,68年1月の安田講堂落城以後は問題が政治問題化し,私は加藤体制の下で大学改革の仕事に数年間たずさわらなければなりませんでした。それに加えて経済大学院の紛争が,全学が落ち着いてからも約10年続き,その対策にもかり出されましたから,年齢にして30代という最もエネルギーに満ちあふれた時代に落ち着いて研究に専念することができなかったのであります。

そのことは当然私の業績にも反映し,特定のテーマについての息の長い実証研究から,さまざまなテーマについてのどちらかといえば理論ないし方法論に傾斜した研究へと,重点が移って参りました。もちろんその原因は,落ち着いて研究に取り組む時間が無かったためばかりではありません。私が職を得た社会科学研究所という所は,法学・政治学と経済学の研究者で構成され,戦後の発足直後は実態調査などでインター・ディシプリナリーな共同研究が盛んだったのですが,その後イデオロギー的,方法論的な内部対立から研究所としてのまとまった活動が停滞し,存亡の危機に立ち至っておりました。そしてそれを克服すべく,ちょうど私が助手になったころから約5年ごとに,全所をあげて取り組む通称「全体研究」と呼ばれる共同研究が組織されるようになっておりました。そのテーマは「アーバニゼーション」から始まって,「基本的人権」「戦後改革」「ファシズムと民主主義」「福祉国家」「現代日本社会」と続き,私はそのすべてに参加しましたから,それにあわせて研究テーマをシフトさせなければなりませんでした。

そういう環境の中で,私が取り組んだ研究を強いて大きくくくりますと,第二次世界大戦後の日本資本主義論と,かつて国家独占資本主義論と呼ばれていた現代資本主義論の二つに集約することができるかと思います。まず前者から取り上げますと,その焦点は二つ,一つは戦後1955年頃から73年の第一次石油危機まで続いた日本の高度経済成長をどう理解するかという問題,もう一つは石油危機後に完成したと考えられる日本的経営・生産システムの構造とその成り立ちに関する問題であります。内容に深く立ち入る余裕はありませんので,私の問題関心を中心に申しますと,第一の高度経済成長については成長率の高さというよりそれがもたらした経済的実体の変化,具体的に申しますと,戦前の日本帝国主義が最大の課題としながら達成できなかった重化学工業化がどうして可能になったのか,というのがそれでした。実際,戦後日本の重化学工業化は,欧米で約半世紀かけて創り上げてきた三世代にわたるそれ,すなわち第一世代としての鉄鋼・造船といった古典的重工業,第二世代としての自動車・家電に代表される耐久消費財工業と石炭化学工業・第三世代としての電子・石油化学・原子力などを,わずか20年ぐらいの間に同時並行的に,しかも世界のトップレベルの競争力を備えた形で実現したものでした。これを可能にした原因を,技術・資源・労働力・資金といった生産諸要素の調達問題に加えて,日本経済を取り巻く国際環境の変化を重視して解こうとしたところに,私の研究の独自性があったかと思っております。なお,この重化学工業化を可能にした諸条件の解明はほぼできたと考えているのですが,そうして確立した重化学工業化のその後の運命については,私は当初,かなり悲観的な見方をしていたかと思います。それはヨーロッパのEUに見られるような水平分業の条件がアジアになく,70年代以後米国との激しい貿易・経済摩擦に注目してのことでした。しかし,この問題は80年代以降のNIEs ・ASEAN諸国・中国などの経済発展とそれに対処した日本企業の企業内分業を伴った多国籍化,さらには日本内部の産業構造の一段の高度化・ハイテク化によって,解決されつつあるように見える,というのが最近の私の見通しであります。

戦後日本経済にかかわる第二の日本的経営・生産システムの研究は,第一次石油危機後のスタグフレーションの見事な克服と,1980年代以降の日本企業の海外直接投資の急増を契機として始まった,海外からの日本的経営への関心の高まり,さらには大学院の演習への外国人留学生の大量参加や,1983年のベルリン自由大学への出講などに触発されたものでした。もっともこの問題の本格的研究は,身近なところでは私の後輩で同僚だった安保哲夫教授のグループ,それには本学の板垣教授や河村教授が参加されておりますが,この安保グループによる息の長い調査研究によって担われたのでして,私はその研究成果のおこぼれを享受して理屈づけを試みているに過ぎないのですが,一番の問題意識は,当初日本の学者の中にもありましたが,主に外国の日本研究者から打ち出された,日本的経営の特質を日本の文化から説明する方法への疑問でした。すなわち,日本的経営の特質を日本の文化の所産としたのでは,それは日本独特のもので,海外での適用など問題にならなくなりますし,また明治期の日本経済,特に当時の中心産業であった綿工業などでは終身雇用も年功賃金もなかったし,戦前期を通して企業別組合もなかったことが説明できません。生産システムまで考慮に入れますと,日本的といわれるさまざまな特質が全体として備わったのは最近のことなのです。さらに突き詰めて考えますと,そもそも文化というのは,たとえばその中心には宗教がありますが,一般的には保守的性格を持ったものであり,逆に市場経済というのは現状変革的性格を持っております。したがって,経済との関わりで文化を問題にするとすれば,文化が経済をどう規定したかではなく,経済が文化によってどう制約されたかが問われなければなりません。その点でいいますと,日本は明治維新期にはヨーロッパの,戦後改革期には米国の,政治・経済,そして社会システムを受け入れるのに文化的抵抗が非常に弱かった国だと言えそうです。そしてそのように考えますと,日本的経営・生産方式の特質も,資本主義とともに発達した西欧起源の経済学の論理でそのほとんどが説明できるものと考えられるのです。文化の問題は,それを突き詰めた上で,どうしても説明ができないものが残ったときに考えればよい,というのが私の到達した結論でありました。

次に現代資本主義論についてですが,これは宇野先生の経済学方法論における三段階論を究めようとの努力のなかで考えていったものであります。ご承知の方も多いと思いますが,宇野先生の三段階論とは,それまでの経済学ではマルクスの『資本論』のような,純粋な資本主義を理論的に再構成した「原理論」を直接「現状分析」に適用するのが常でしたが,現状分析を正確に行うためには原理論を直接適用するのでなく,重商主義・自由主義・帝国主義と展開した資本主義の歴史的発展段階を,それを主導した中心国とそこにおける支配的資本の蓄積様式によって把握する「段階論」を構成し,それを間に入れて現状分析を行わなければいけない,というものです。これによって,最初の方で触れました「講座派」と「労農派」による日本資本主義論争も解決の道が開けたのですが,私の関心は,先にも触れましたように私の職場が社会科学研究所という法学・政治学の研究者と経済学の研究者からなるインター・ディシプリナリーな研究をするところであったことと関係がありました。この宇野三段階論では,市場経済の論理のみによって一元的に構成される原理論の世界はもちろん経済学の領域ですが,そこでの人々の行動規範を定めるものとしての市民法は原理論に属するが,国家が原理的世界から捨象されますために,それを主たる対象とする政治学に原理論はなく,それは段階論以降で取り扱われることになります。さらに,宇野先生の強い主張もあって,社研の英語訳は,通常欧米で使われる social sciences という複数形でなく, Institute of Social Science という具合に単数形で表現され,そこには従来バラバラに研究されていた社会諸科学を一つの社会科学に統一したい,という理念が示されているとされていました。つまり,これは私の解釈が入っていますが,宇野理論の体系においては,分化した社会諸科学の世界は「段階論」のレベルにあり,現状分析はそれらの諸科学が総合された単数の社会科学の領域だ,ということになります。

ところで,そうした認識を前提として,たとえば当時の国家独占資本主義論を見ますと,「国家が経済に従属する」とか「国家が経済と融合する」とかの表現がやたらとありまして,その例証として国家資本とか財政投融資とかの現象があげられ,いったいそれらは経済的土台なのか,政治的上部構造なのかといった,ことを唯物史観レベルに還元した議論が盛んに行われていたのです。宇野先生にはもう一つ,ロシア社会主義が現実のものとなってからは,資本主義は資本主義の論理だけでは動けなくなり,多かれ少なかれ社会主義を意識した政策運営を行わざるをえないため,それは段階論の対象から外れ,現状分析の対象となるという理解があり,それにもとづけば,現代資本主義は現状分析論の対象ということになりますから,それは単数の社会科学で分析しなければならないことが説得力を増すことになります。社研の法科系の同僚たちと現代法について議論したことがありますが,現代法の一つの特徴として,何々基本法といった政策理念をうたった規範性の乏しいものがふえる傾向があることが指摘されていました。それは政治・行政と法律の融合といってよいのかもしれません。法と政治の区別,さらにそれらと経済との区別は,資本主義の自由主義段階まではそれぞれが分化し自立することによって,法学・政治学・経済学を成立せしめたと言えますが,資本主義が帝国主義段階にはいると,それらの間の境界が曖昧になり,それぞれも不純化する,そして現代資本主義ともなれば,三者の間に広範なグレーゾーンが形成されるといってよさそうです。

以上は,現代資本主義と,それを解明するための社会諸科学との関連の問題ですが,1990年代に入ってソ連が崩壊し,ソ連・東欧の社会主義が廃棄されて資本主義への逆行が始まってから,宇野理論による現代資本主義の把握そのものに大きな修正を試みる議論が現れました。宇野先生のロシア革命評価を過大なものとして退け,現代資本主義を福祉国家資本主義として捉え,自由主義段階までを資本主義の第一段階,その後の帝国主義段階を福祉国家資本主義の前史としてそれにつなげてその第二段階とする,加藤栄一氏の主張がそれであります。いうまでもなく,福祉国家資本主義の真髄は社会保険と生活保護を二本の柱とする社会保障制度にありますが,この加藤説では帝国主義段階のビスマルクの社会政策やイギリスの失業保険をその前史として連続させるのです。もちろん私も,この両者に制度的連続性があることを否定はしませんが,社会政策と社会保障との間にある基本的理念の違いを重視したいのです。前者はあくまで支配階級の側からの宥和政策であり,対外的な帝国主義政策と併存するものでありましたが,後者は生存権という現代的基本人権として構成され,理念的には社会主義の原則が忍びこんでいるものなのです。ロシア革命が生み出したソ連型社会主義がいかに負の側面を持った忌まわしいものだったにしても,それが資本主義世界にもたらした巨大なインパクトは,同時に起こりながら挫折したドイツ革命の所産であるワイマール共和国の遺産等とともに,ロシア革命以後の資本主義を,古典的帝国主義段階とは,したがってまた自由主義段階を含む古典的資本主義とは質的に断絶したものとしたのであります。現代資本主義をめぐる諸問題には,ほかにも,特に1980年代に始まる米国主導の新自由主義によるグローバリゼーションをどう評価するか,というホットな問題がありますが,時間的余裕の不足からたちいることを断念せざるをえません。

_ 4.社会主義論とグレーゾーンの社会科学の提唱

現代諸本主義が問題になればそのコロラリーとして社会主義論が問題にならざるを得ません。このテーマは私にとってもっとも縁遠いテーマだったのですが,ソ連型社会主義の崩壊後,マルクス経済学者としては避けて通れない問題でした。また,資本主義の基本的矛盾を「生産の社会的性格に対する領有(所有)の私的性格」に求めるコミンテルン系マルクス主義に対して,宇野理論ではそれを「労働力商品化の無理を基礎とした資本の自己矛盾」として理解していたことからも,無視することが許されないと考えたわけです。先ず前者の所有論的社会主義論によれば,生産手段の所有を社会化すれば,一国社会主義の下では社会化の最高形態は国有化ですから国有化すれば,社会主義が実現されたことになります。そういう認識にもとづいて,1970年代以降ソ連は今や社会主義から共産主義への移行段階にある,といった自己宣伝をしておりました。しかし,それが全くナンセンスな議論であったことは今や明らかです。そこで,所有論的社会主義論が間違っていたとすれば,どのように問題をたてればよいのか。宇野理論では,資本主義の基本的矛盾に対する先のような認識を持っておりましたから,社会主義の課題は「労働力商品化の止揚,アウフヘーベンにある」という答えが用意されていたのですが,その具体的内容については必ずしも詰めた議論はなされておりませんでした。そこで私が考えたのは,資本主義を市場経済一般から区別して一社会たらしめている労働力商品の商品特性です。それは次の三点に集約されると言っていいでしょう。第1に商品の価格である労賃が市場で他律的にきまること,第2に労働力が商品として売れなければ失業し,生存の危機に直面すること,第3に労働力商品の消費過程である労働過程は,雇用主である資本家の指揮命令で行われ,いわゆる労働の疎外が生じること,の三点がそれです。それゆえ,労働力の商品化の止揚を具体的に規定するとすれば,この三点がそれぞれ克服されることによってである,ということになります。ポジティブにいえば,労働者がみずからの賃金を自分で決める,労働する権利が保障され失業が回避される,労働過程の主体性が確保される,の三点の実現が,その内容になります。

ソ連型社会主義においてはこの三点のうち第二の労働の権利がゆがんだ過剰雇用を伴いつつ辛くも実現していましたが,第一と第三の点はまったく実現していなかったといわざるをえません。ところが興味深いことは,現代資本主義の先進諸国において,この第一と第二の点が半ば実現していることであります。福祉国家化による労働基本権の保障によって,賃金は労使の団体交渉によって決定されることにより,労働者は自己の賃金決定に半分の発言権を得たことになります。また生存権の確立によって,労働者の失業が無くなったわけではありませんが,もし失業した場合には,政府は彼または彼女とその家族の生活を保障しなければなりません。さらにいえば,第三の労働過程の主体性についても,ほかならぬ日本の企業における仕事を生き甲斐とした会社人間の形成という形で,擬似的に実現しているのです。こうした意味で,現代資本主義のもとでは,社会主義の要素が部分的に現実化していること,私のいうクリーピング・ソーシャリズムが進行していることが言えそうなのであります。このことは,現代資本主義が社会主義への世界史的移行の時代の資本主義であるという宇野先生の主張が,ソ連型社会主義の崩壊を経た後においても妥当することを示すものではないでしょうか。実は私はこの最終講義で,この新しい社会主義論をもう少し詰めてお話ししたかったのですが,能力と時間の不足で間に合いませんでした。しかし何時の日か,もう少し内容を豊かにして論文にまとめたいと考えております。

ところで,この節の見出しで「グレーゾーンの社会科学」といった耳慣れない言葉を掲げましたが,これは二つの意味を含んでおります。ひとつは先程述べた法と政治,経済の間のグレーゾーンが拡大していることからくる法学・政治学そして経済学の単一の社会科学への収斂の必要であります。もうひとつは,最後に述べました資本主義から社会主義への移行期のグレーゾーンの存在です。現代資本主義はさまざまな意味でグレーゾ−ンを拡大し,そのことによってわれわれの認識を曇らせる側面を持っております。先ほど触れた大企業における日本的経営の特徴のひとつに,新入社員としての従業員が昇進とともにその労働者性を次第に希薄化し,経営者性・資本家性を濃厚にしてゆくプロセスがあります。この末端の労働者から頂点の経営者までの連続性は,その間にいくつかの断絶が見られる欧米の場合と比べての日本の特質ですが,ここにも労働者か資本家か,という二分法では割り切れないグレーゾーンがあるわけです。私の若い時代を振り返れば,かつての信用理論研究会,現在の信用理論研究学会で行われた不換銀行券論争は,金貨本位制と現在のような金廃貨後の通貨制度の間にある金地金本位制,金為替本位制,IMF下の金ドル本位制,といった過渡形態のグレーゾーンを充分意識しなかった欠陥があったと思われます。現在のいわゆるプライバタイゼーションも,純然たる公と私の間にさまざまな中間形態,すなわちグレーゾーンをつくりだしているに過ぎないのではないでしょうか。グレーゾーンの社会科学を提唱する所以であります。

さて,以上が私の研究遍歴と現在考えていることのエッセンスでありますが,以下副題につけてしまったものですから,私の教育体験と国際交流についての提案を簡単に述べたいと存じます。

_ 5.教育について

先程申しましたように,東大時代は研究所におりましたので,学部の教育負担は免れましたが,私はどちらかというと講義をするのをあまり負担に感じない方でして,履歴に書きましたように,他大学から講義や集中講義を頼まれますと割と気楽に引きうけました。それだけでなく,私の学生時代の経験から,学部の演習だけは積極的に持ちたい気持がありまして,東大紛争のあと,経済学部から社研や教養学部のスタッフに演習を手伝って欲しいという要請が参りました時には、喜んで引きうけたのです。この演習は,後に学部の意向が変わって1978年度までの6年間で終了しなければなりませんでしたが,ゼミ生約30名の中から3人の東大教授が育ったということは,もちろんご本人の才能と努力のたまものですが,嬉しいことでした。

武蔵大学に参りましてからは,毎週二つないし一つの大教室での講義と,教養ゼミ並びに当初は二つの専門ゼミ,後には半年の4年生のゼミができて三つの専門ゼミを担当することがノルマとなりました。私がゼミの諸君に課した義務は,専門ゼミを修了する時に必ず自分の研究テーマについて論文を書くことでした。そしてそれを卒業時に『柴垣ゼミ論文集』という合本にして各自1部ずつ持って卒業するという慣行をつくりました。今年で第8集まで刊行されています。この試みはよいことだったと思っていますが,この十年間をあらためて振り返ってみますと,心残りなことが二つほどあります。

一つはゼミ募集の案内記事に「私は大学を幼稚園にしたくないので,手とり足とりの指導はしない。その代わり食いついてくる学生諸君とはトコトン相手をする。すべては諸君の自発性にかかっている」と書き,そのとりに実行したことです。毎年食いついてくる学生諸君は何人かはいました。しかし教育における重要な課題が,底辺を引き上げることだとしますと,私のやり方は安易だったかもしれません。もう一つの点は,ゼミでの議論が学生諸君の質問に私が答えるという形,また質問が少ないためほとんど私一人がしゃべり続けることが多かったことです。募集案内には「討論に重点を置き,かならずしも結論を求めない。討論を通じて参加者の思考能力を高めることに目標を置く」とかっこいいことを書いたのですが,これがほとんど実現できず,せいぜい学生諸君と私との一問一答の会話に終わってしまったのです。途中からゼミのスローガンは「教師の独演会を粉砕せよ!」だと書いたのですが,効果はあがりませんでした。それでも私にとって本学で最後のゼミは,3年生を中心にかつてない討論が組織できたと喜んでおります。

_ 6.国際交流について

最後に国際交流について述べさせていただきたいと存じます。と申しましても,私の研究生活での国際化は大変遅くなってからのことであります。もともと英語が苦手な上に若いときに留学の機会に恵まれず,1973年の日ソ経済学者シンポジウムでモスクワに行ったのが最初の海外体験でした。日ソシンポジウムへの参加は以後ソ連解体まで続きましたが,通訳を介して議論するのですからあまり困ることはありませんでした。相手方が科学アカデミーの世界経済国際関係研究所で,後にゴルバチョフのブレインになったイノゼムツェフとか首相を務めたプリマコフとはこの交流を通して知り合いました。

しかし,私にとって本格的な国際化は,日本経済が強くなった結果の産物でして,1980年代に入りますと,大学院に日本の経済や経営を専攻する外国人留学生が増え,私の演習は10名前後の大部分が外国人という状態が続きました。また海外から日本経済について講義をしてほしいという依頼が来るようになりました。それに応えて最初に参りましたのがまだカベがあった時代のベルリン自由大学であり,次が武蔵に参りましてからのコペンハーゲン商科大学でした。日本でいう集中講義の形では,その間にカナダのブリティッシュコロンビア大学があります。そしてこれらの仕事を通じて日本的経営・生産システムの研究を目的としたユーロ・ジャパニーズ・マネジメント・スタディーズ・アソシエーションという国際学会が生まれ,長くその役員を務めることにもなったのであります。

ところで,ここで「国際交流」を柱の一つに立てましたのは,そのことでの私の経験をお話しするためではありません。その点はきわめて平凡な内容で,特にお話しすべきことはございません。私がここで申し上げたいのは,武蔵大学の国際交流に関してのささやかな提案であります。ここにお集まりの多くの方がご承知のように,武蔵大学は学生や教員の海外への留学には前から大変熱心でありましたが,逆に海外からの受け入れについては相対的におくれていたといって間違いないと思います。もっともこの数年,その遅れを一挙に取り戻すような努力が払われ,英語で講義を提供するカリキュラムが編成されていることは承知しています。そして,この取り組みがますます充実されることが望ましいことはいうまでもありませんが,本学の書籍等の豊かな物的資産の蓄積と優れた教職員スタッフを活かすならば,もう少し楽に,そしてその効果が当方にも直接プラスとなって還元されるような取り組みがあり得るのではないか,ということであります。

提案の内容を具体的に申しますと,日本研究を専門とする海外のドクター・キャンディデートで,学位論文作成のために日本に留学を希望する人々を外国人研究員として受け入れる,そして受け入れに際しては共同研究室を用意し,研究用のデスクとロッカー,図書館など大学のファシリティの利用権を提供し,奨学金は出さないが受入料(授業料)もとらない,というものです。この取り組みは次の点で大きなプラスの効果があると思います。第一は,私たち本学の教員にとってのよい刺激です。私が武蔵に参りましてかねがね感じていたのは,大学院生がかなり多い人文学部は違うかもしれませんが,院生が少ない経済学部についていえば20代後半から30代前半という研究者としてもっともエネルギーのある世代が層として薄いということでした。ドクター・キャンディデートというのはまさにその世代でありますから,彼らの若々しいエネルギーがわれわれによい刺激を与えてくれるに違いありません。しかも第二に,彼らはあと論文を書けばよいというだけのキャリアの持ち主ですから世話を引き受けてもあまり負担にはなりませんし,日本研究者ですから日本語も達者なはずで,コミュニケーションに苦労することも少ないと思われます。さらに第三に,彼らはいずれ世界各国の大学で日本研究者として教職に就く人々ですから,将来の本学の国際学術交流に貢献すること確実です。こういう良いことずくめなのですが,そういった人々がどれだけいるか,また武蔵に来ることを希望するか,という問題が残ります。この点についても私は強気です。この制度は,私の前の職場である東大社研で結果として大成功を収めたものですが,当初10人前後を受け入れていたのが,それでは不足で20人前後に倍増してなお断らざるをえない状況にあると聞いております。需要はあるわけです。次の問題は武蔵に来てくれるかですが,おそらく図書の蔵書数や資料の利用のしやすさは,私の経験では武蔵の方が上です。そうだとすると,あとは宣伝と受け入れ経験者の口コミです。この提案が私の武蔵大学への最後のご奉公ですが,これをもちまして私の最終講義を終わらせていただきます。ご静聴ありがとうございました。

(2004年3月27日)

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